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長沼サーフボード工場

更新日:2021年2月1日

文:川南正


左から長沼一仁で、隣がサンディングをやっていた有馬。左から3人目がおれで、その右隣の中腰の男はカシ君。おれよりの1歳年上だと思うんだ。とても有名なやつで、彼のお父さんも有名なコメディアン、彼も俳優で、子どものころからやっていたらしく、森田健作の先輩らしいね。なぜか、長沼の工場でラミネートをやっていた。右から2番目が由井アキラで、右端がジプシーと呼ばれていたやつで、彼は東京の麻布から来ていて、「サーフボード作りを手伝いたい」と言って、このプレハブの工場に住み込んでいた。最初、長沼の工場は稲村の由井ん家の裏にあったんだよ。それでそのころから板が流行りはじめていて、工場が手狭になったので、手広に土地を見つけてプレハブを建てて新しい工場をはじめたんだ。長沼サーフボードの工場は今も手広にあるけど、道路の前に他人の土地があって、車が入れない工場なんだ。プレハブが2棟建っていた。これは1972年ごろの写真だね。当時、おれはすでに「ロージーズ」というお店をやっていて、このときはたぶん板をシェイプしたんだね。おれはもうニーボードをやっていて、ニーボードをシェイプしていたんだと思う。この半年前か1年前、その当時付き合っていた彼女が、テッドの中古の板をだれかにもらったんだよ。その板はデッキに水が入っていてぶかぶかに剥離して壊れていたんで、長沼の工場を知っていたから「直してやるよ」って言ったんだ。当時、おれは板のことなんかなんにも知らなかったから、長沼に訊いたんだよ、「これ、修理するにはどうしたらいい?」って。そしたら、「剥がして、もう1回コーティングすればいい」って言うから、剥がしたら、ストリンガーの絵が描いてあるけど、ストリンガーなんか入ってないんだよ。その板は2メートル70〜80センチあって、テール側からべりべりと剥がしていったら、途中でバキっと折れたんだ、3/1ぐらいのところで。残ったのが2/3、2メートル弱なんだよ。それで、長沼に「これ、なんとかならない?」って訊いたら、「なんねえよ」って言うんだ。「じゃあ、しょうがないや」って、残っている2/3を全部剥がして、自分でシェイプしなおして、作りあげたのがニーボードなんだよ。やっとのばして165センチぐらいかな。「そんな短いの、乗れないよ」って、話になったけど、「これ、ニーボードとして使えば、乗れるらしいよ」って、だれかが言うんだよ。「そんな板、乗れない」って彼女に言われたから、「いいじゃないよ、腹ばいになって乗ってればいいんだから」って答えたけど、「冗談じゃない」って怒られて。「乗れないわけ、ないよ」って、おれは台風のときに稲村のインサイドで乗ったら、乗れるんだよ。すごく調子がいいんだ。稲村のアウトサイドにいる連中はみんな知ってる顔だから、「たーちゃん、何やってんだよ、こんなところで」って言われてさ。それで、足ヒレ付けて、パタパタ行ったら、ちゃんと乗れるんだよ。なんでニーボードのことを知っていたのかというと、そのときすでに雑誌の輸入とかやっていたので、それを見て知っていたんだよ。それ以来、ニーボードもやるようになったんだ。



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